アブルッツォで思いつくのは、2009年4月に起きたイタリア中部ラクイラ大地震。TVでもたびたび報道されていたので、ラクイラという名前くらいは覚えている人も多いだろう。
今回の出張のメイン目的であるアブルッツォ訪問は、このラクイラを訪ねることから考え始めた。訪れることが復興につながるのは日本もイタリアも同じこと。
復興半ばのラクイラ
スルモーナ2日目の朝は、宿泊客も少なく落ち着いたホテルレストランでの朝食からスタート。このホテルが当たりだということは前回書いたが、静かに始まる朝もこのホテルならでは…。
朝食後、前日に取材しきれなかったスルモーナの町を追加で撮影取材。この1週間ほど天気が良かったのだが、さすがに山間部の町は天気が変わりやすいのか、この日は今にも雨が降り出しそうな空。早々にラクイラへ日帰り取材にでかけた。前日とは打って変わって曇り空と身軽なため、スルモーナ駅までの道のりがとても楽に感じる。
ほどなくして、スルモーナ駅に到着。ラクイラまでの列車は一日に数本しか運行していないため、予定していた列車の出発時間まで駅で一休み。その間にローマ行の電車や反対のペスカーラ行きの電車が、1本ずつ止まっては過ぎていく。そのうち2両編成のディーゼル列車が到着、どうやらこれがスルモーナとラクイラを結ぶ路線を往復する列車のようだ。
スルモーナを出発するとすぐ、グラン・サッソ・ディタリアの裾野を縫うようにディーゼルは進み、いくつものトンネルを通る。山間の路線を約1時間ほど進んだ後、終点のラクイラ駅に到着した。
町の名前の起源は、丘の麓にいくつかの水源地があり、そのおかげで古代からすでにこの地域を「アクレ(Acculae)」と呼んでいたことによる。そして、この町には何かと”99″という数字と関連したものが多い。
例えば、ラクイラのシンボル「99の噴水」。かつて町の周辺に99の城があり、市内も99の地区から形成されたことに起因するそうだ。また、当時は99の広場と99の教会があったとも。
街の中心は標高714mとだいぶ高い。「99の噴水」から緩やかに上り坂になっている道を進めば、中心の広場へ出られるだろうと進む。イタリアでは中心といえば、ドゥオーモ広場だ。だが、そこまでの道のりはまだまだ震災の爪痕が色濃く残っている。
途中小雨が降り出し、修復だらけの町並みには人っ子一人いない。やっとドゥオーモ広場に到着し、かろうじて観光に来ていた人がまばらにいただけだった。
ラクイラの象徴 バジリカ・ディ・サンタ・マリア・コッレマッジョ
さて、雨は本降りになってきたようだが、ラクイラ市民の心の拠り所、バジリカを探さなくてはならない。片言のイタリア語で道行く人に聞いてみると、バスターミナルから5分も歩けばたどり着けるという情報を聞き出した。そういえばラクイラでの昼食のことを何も考えていなかったので、バスターミナルにあるバールで簡単な昼食を取る。
食後緩やかな上り坂を歩いて、やっとラクイラのバジリカ、サンタ・マリア・コッレマッジョにたどり着く。雨に濡れた緑に覆われた広い芝生の前に堂々と立つバジリカは、美しい左右対称の城とピンクを基調とした立派なファサードが目に入ってきた(冒頭画像)。
3つのバラ窓の下に3つの扉口、その扉の装飾で飾られている聖人像のいくつかは震災の影響なのか頭部がなくなっていた。
教会左側の壁にある聖なる扉Porta Santaの上部には、ラクイラの象徴である鷲の彫刻が施されている。この教会は聖ピエトロ・ケレスティヌスの遺体が安置されているのだが、残念ながらこの日は中に入ることができなかった。
サンタ・マリア・ディ・コッレマッジョをあとにして再び中心に戻り、中世のままの町並みを歩いているうちに天気は急速に回復し、夏の日差しが照りつけ始めた。町の北東部には城(カステッロ)があり、中には国立アブルッツォ博物館があるはずなのだが、またもや震災の影響で中に入ることができなかった。
その途中で、もう一つのバジリカ、サン・ベルナルディーノ教会に出会った。ここは、震災の中継で何度もTVに映った、震災の象徴ともいえる教会だ。教会の前には石段の坂道、それを登ると壮大な教会の正面が見えるはずなのだが、ここも残念ながら工事用の防護壁で囲まれていた。
当初、アブルッツォ周遊の拠点はラクイラにするつもりだった。アブルッツォ州の県都であること、世界遺産に匹敵する建造物があるため、宿泊施設も多いだろうということからだ。ところが実際に訪ねてみると、震災からの復興は思いのほか進んでおらず、稼働しているホテルは皆無に等しい状態だった。イタリア経済の影がここにも及んでいて、復興がままならないという状態のようだ。
辛うじて「99の噴水」近くに3つ星クラスの良さそうなホテルがあり、テラスもあって賑わっていた。(帰国後だいぶ経ってこれを書いているが、改めて調べてみるとさらに2~3のホテルが営業を再開しているようだ。)せめて宿泊施設がもう少し復活すれば訪れる人も多くなるだろうに、と思いながらラクイラを後にした。
スルモーナのお祭り
ちょうどスルモーナを訪れたのは7月の最終週末。スルモーナで毎年行われるGiostra Cavallerescaというお祭りに出会った。周辺の小さな村を含め、村ごとに中世の甲冑や衣装に身をまとって競うコンテストのようだ。また土曜日にはガリバルディ広場で特設競馬場を設置しての競馬があったようだった。
あいにくラクイラを日帰りしたためスルモーナに戻ったのは夕方遅く、メインのコンテストは全く見ることができなかった。その日の夕食はどこで食べようと町をぶらぶらしていたところ、広場で屋台が出て食事ができると聞き、さっそくそこへ向かった。それは、日本でいうお祭りの屋台のようなもの。
午後8時30分から食事がスタートすると聞いたので、それまでゆっくり広場近くのビアバーでビールを飲んでいたら、みるみる人が集まってきた。この広場に収まりきらないのではと思うくらいの人だったのであわてて屋台のほうへ行ってみると、広場いっぱいに設置されたテーブルやイス、テントはすでに人で埋め尽くされ、とても食事ができそうな状態ではない。
食事は飲み物も含め、すべて一度チケットを購入してからそのチケットと交換とのこと。チケット売り場は列に並ぼうという住民たちのもみ合い状態で、とても異国からの観光客は食事にありつけそうにあない。そこで二手に分かれて一人はチケット購入&食事の調達、一人は場所の確保と分担した。チケット売り場では30分以上並んだだろうか、しまいには横入りしたのしないのと、喧嘩が始まる始末。
一方、場所の確保担当はボランティアのおばちゃんに助けられ、どうにかテーブル一つを分けてもらえたようだ。やっと食事もゲットし、「さあ、ゆっくり祭りを楽しもう」というときトイレに行きたくなった。周りには仮設のトイレも見つからないため急ぎ足でホテルに戻り、やっと部屋で戦利品の食事にありついた。それがコレ↓↓↓
アブルッツォの串焼き”アッロスティチーニ”とポテトにサルシッチャ、そしてペコペコのコップに注がれたモンテプルチアーノ・ダブルッツォのワイン。1杯では足りないので、部屋に置いてあったボトルを開けて、ようやくスルモーナ2日目が終了した。
日本語を話すスタッフがいるホテル
ところで祭りからホテルに戻ったとき、昨日とは違うスタッフ(女性)がフロントに立っていて、「おかえりなさい」と日本語で挨拶をしてくれた。少し話したくなって、一度屋台で仕入れた食事を部屋に置いてきたのち、再びフロントに戻って話を聞いてみる。
彼女いわく、かつて日本を訪れたことがあり、それ以来日本語を勉強しているとのことだった。そこで、今回の我々の旅の目的が自分にとって未知のエリアのアブルッツォを視察していること、きっかけはたった1冊の本であったことを伝えると、偶然にもその本の著者が以前このホテルに宿泊したことや、今でもFacebookで交流があることを、彼女の片言の日本語で聞くことができた。
大都市ならともかく、このような小さな町のホテルで日本語に出会うと少しホッとする。その日の夕食(部屋で屋台の戦利品を食する)がまだだったので早々に話を切り上げたが、こんなことならペスカーラよりもスルモーナに3泊すればよかったと思ったくらいだった。
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